【皆賀の歴史】引き継がれる物語|西広島バイパス開発と五日市の大楓
皆賀の歴史
文献によると皆賀は江戸時代には水⻑と書き、水が滞留する場所だったそう。当時の住⺠らが力を合わせて行った治水工事で改善。それを祝って皆が賀す(祝う)という意味の現在の表記になりました。
下の写真は手元に残る一番古い当敷地の写真で、1927年(昭和2年)の様子です。母屋の屋根は茅葺で、家のすぐ裏手は山でした。(右手の蔵は敷地奥に移築して現存しています)
時代は下って1960年代、日本列島全体が切った張ったの大改造の頃のこと。宮島街道(国道2号線)の交通量増大に伴い中区平野町から廿日市市地御前にかけて西広島バイパスが計画されました。
写真が撮影されたのは昭和45年(1970年)と手書きの文字。入手経路は不明ですが、亡くなった祖父の書斎で見つかりました。
ミナガルテン計画地(写真中央左手)の裏山が削られ、高架を通す準備をしている頃の様子です。その後、周辺の宅地化が進み皆賀は広島市のベッドタウンとして発展。1985年に佐伯郡五日市町は広島市佐伯区として市に編入合併されました。
「五日市の大楓」
下の写真は、西広島バイパス開発が始まる前の我が家の風景。卸売業に移行する以前、チューリップの球根や蘭を生産して出荷していた頃の様子です。
写真左手にある楓の木は広島県の天然記念物にも指定され、日本一の樹齢(約600年)と大きさを誇るものでした。「五日市の大楓」と呼ばれ親しまれていましたが、バイパス開発により空気の流れが変わり枯れてしまったそうで、私は実物を見たことがありません。
当時の中国新聞のインタビューに「木の根は大切に保存して孫子の代まで伝えたい」と祖父が語っていました。 「おじいちゃん、バトンは受け取ったよ!」そんな気持ちを込めて、ミナガルテンの街のイラストには「大樹の切り株」と表記しながら、その姿は在りし日のまま描いてもらいました。
この写真やイラストの中の大樹に負けないくらい、四季折々豊かな樹木草花と人々の笑顔の花咲く「大きな庭」がまた、ここに広がることを夢見ています。
↓ 他の記事を読む